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朽木谷と久多 [京都]

左京区久多S.jpg
(久多1965年)
朽木谷と久多

「町にでるよって、なんぞ欲しいものがあれば買うてくるで」
「おおきに」
 
 最も近いバス停まで2時間というここの村人は扶け合いながら生きていた。京都市左京区久多。
 下克上の時代、都は三好長慶と松永久秀に支配され、将軍義輝は山城と近江が境を接する朽木谷に逃れて六角義賢の援軍を待っていた。久多はこの朽木と安曇川を挟んだ対岸の山間にある。京阪三条を朝早く出る京都バスで花折峠を越えて終点の梅ノ木で降り、徒歩で安曇川に架かった橋を渡り峠を越えると久多に至る。梅ノ木で江若バスに乗り継ぐと若狭の小浜に出られるが、便は日に2本しかなかった。昔は日本海の魚介類を京都へ運んだ道で鯖街道といわれ、朝倉攻めで浅井長政の裏切りにあった信長が京都へ逃げ帰った道でもある。村には太い丸太が山積みになっていて林業を生業とすると知れた。林業も戦後1960年代までは活況を呈したが、電気・ガスの普及による薪炭需要の急減と、業界と政治家の圧力により政府が行った木材輸入全面自由化措置(1964年)による大量の外材流入のまえに壊滅状態になった。若者は都会に出て後継者もなく高齢化と過疎化がすすんで現在の久多は限界集落と聞く。消えてしまうには惜しい村だ。

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