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京都長岡八条ヶ池 [京都]

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京都長岡八条ヶ池と古今伝授

 細川藤孝(幽斎)は丹後田辺城(舞鶴)で西軍1万5千の兵に包囲されていた。藤孝は武人でありまた三条西実枝から「古今伝授」を受けた歌道の大家で弟子も多かった。「藤孝危うし」の報が京都に伝わると、弟子の八条宮は二度にわたって和議を勧めたが藤孝はこれを謝絶して籠城。藤孝討死とともに古今伝授の断絶を憂えた八条宮は、兄の後陽成天皇に奏請し、天皇は勅使を派遣した。藤孝はこれを受けて開城。関ヶ原の戦いのわずか二日前のことだ。古今伝授は藤孝から八条宮、八条宮から後水尾天皇と相伝されたが、後の俳諧隆盛と国学者の研究進展により次第に影響力を失っていった。
 長岡から桂にかけての一帯は山城西岡と呼ばれ、信長の時代には細川家の、藤孝が丹後に移ると八条宮の所領となった。八条宮は造庭に秀で後年桂離宮を造営し、長岡天満宮では池を築造した。現在の八条ヶ池である。初夏には中堤の参道両側は霧島つつじに彩られ、途中の池を跨ぐ石の太鼓橋は加賀前田家の寄進と伝えられる。


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